小僧寿しが高級寿司よりも美味しかったあの日の自分から──その「美味しさ」は何によって決まった?

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「一番おいしいのは、カレーの王子様」
夕飯の支度をしながら、ふと子どもに聞いてみた。
「何が一番おいしいと思う?」
少し考えて、こう返ってきた。
「カレーの王子様」
思わず笑ってしまったけど、どこかうなずいてしまう自分もいた。
あれはたしかに“おいしい”。
甘くて、安心で、辛くなくて、いつまでも食べていられる。
でも、その答えを聞いて、ふと考えてしまった。
僕にとっては、ウェルチが一番だった
僕はお酒を飲まない。
どんなに高級なワインを出されても、「ありがたみ」は感じるけど、美味しさの実感はない。
そんな僕にとって、“最高のブドウの味”は──ウェルチだ。
濃くて甘くて、誰が飲んでも「おいしいね」と言える味。
子どもでも安心して飲める、わかりやすくて、ちゃんと強い。
でも、今になってこうも思う。
それは、「いまだにワインの味を美味しいと思えない」僕だからこそ言える、“変わらない美味しさ”なのかもしれない。
小僧寿しの方が美味しかった、あの日も
小学生の頃、父に映画に連れて行ってもらった帰り道。
普段、接待で使っているという高級な寿司屋に連れていってくれたことがある。
目の前で握られる寿司。
ネタもシャリも、一流だった。
でも、食べた後の僕の正直な感想はこうだった。
「小僧寿しの方が、うまいかも」
理由は明確だった。
小僧寿しの方が、“食べ応えがあった”。
高級寿司は、口に入れた瞬間にシャリがほろほろと崩れ、物足りなさが残った。
「美味しさ」の定義が、まだ自分の中に育っていなかったんだと思う。
幼いころの「おいしい」は、インパクトで決まる
あの頃の僕にとって、「おいしい」とは、
味が濃くて、たっぷり食べられて、しっかり満たされることだった。
満足感を与えてくれる“わかりやすさ”。
それが、美味しさの正体だった。
でも──本当に、本格派が「上」なのか?
じゃあ、大人になった今なら、
本格スパイスカレーはカレーの王子様より「上」なのか?
職人の握る寿司は、小僧寿しより「上」なのか?
よく考えてみると、それって──
“世間がそう評価しているだけ”なのかもしれない。
文化が違えば、基準も変わる。
細さが美しいという国もあれば、太さが豊かさとされる地域もある。
「首が長いことが美しい」とされる文化だってある。
“上質”や“本物”は、絶対的なものではない。
誰かが決めた「ものさし」によって生まれている。
この“わかりやすさ=正義”という構造は、ヨガにもある
「難しいポーズなんて無理だし、必要ない」
「心地いいのが一番」
そんなふうに言われることがある。
そして、僕もある程度までは、それに同意している。
ヨガにおいて、“心地よさ”はとても大切だ。
でも──それが「安全地帯のぬるま湯」になっているとしたら?
「ちょっとキツい」が連れていく、知らない世界
誰にでもわかる甘さ。
たっぷりの量。
やさしくて、なじみやすいポーズ。
そういった“わかりやすい美味しさ”は、たしかにある。
でも、それしか知らなければ、ずっとそこに留まりつづけてしまう。
ウェルチしか飲んだことがなければ、
ワインの奥にある“苦味と深さ”に出会うことはない。
ヨガも同じ。
少し苦手なポーズ。
少しだけ勇気のいるアプローチ。
その「ちょっとだけ外」に、
今まで知らなかった自分の輪郭が眠っていることがある。
「今、わかりやすい味」も、否定しない
僕は、ウェルチを否定しない。
カレーの王子様だって大好きだ。
あれは、あれでひとつの完成形だと思う。
でも、もし「それしか知らないまま」なら──やっぱり、もったいない。
分け合えなかった、ゴーゴーカレーの思い出
実は、フードコートで子どもとご飯を食べたときのことを思い出した。
普段は子どもの食べたいものを優先していたけれど、
たまたま自分もお腹が空いていて、つい「ゴーゴーカレー」を頼んでしまった。
自分の食欲にはちょうどよくて、「うまい」と思った。
でも、子どもにとっては「からいだけ」。
結局、ひと口で終わってしまった。
分け合えなかった。
一緒に楽しむことができなかった。
そのとき、ふと寂しさと反省がよぎった。
“美味しい”は、誰のためのものか?
それを考えさせられた出来事だった。
届けたいのは、「安心」か「変化」か
「わからないからやらない」「苦手だからやらない」──
そんな理由で、何かを遠ざける人に、そっと伝えたい。
本当に届けたいものがあるなら──
ただ寄り添うだけでは、届かない。
押しつければ、拒まれる。
だから、その“あいだ”で揺れる。
安心できる味と、挑戦的な味のあいだで、
心地よさと、変容のきっかけのあいだで、
今の自分と、まだ見ぬ自分のあいだで──
その揺れを引き受けるのが、
僕たち“伝える側”の役割なんじゃないかと思う。
あなたが届けたい「美味しさ」は、どんな基準ですか?
その“美味しさ”が、届けたい誰かに、やさしく染み入りますように。